| Home |
2008.06.20
解説

連日お経の勉強会で使うプリントを作っている。
読むのはたぶん老眼の人ばかりなので、文字を大きくし、真訓ならべて訳し、いちいち振り仮名を付け、注も卒論みたいな勢いで細かく調べて付けていたので、いつも読む「第2章 巧妙な手段」のところのめどが立ったばかり。
ただ、実際どの程度詳しく説明するべきなのかよく分からない。細かすぎると難しいと敬遠されるおそれがあるし、あまりやさしく簡単にやりすぎるとなにが言いたいのかわからずかえって不親切になる。まあとりあえずはやってみて反応を見るしかない。
ネットでも調べてみると、いろいろな団体が訳文を載せている。でも古文の助動詞などの扱いがいい加減というか意訳っぽいのことがあるのでそれぞれ微妙に意味が違ったりする。もちろんわざと読み替える場合も多いが、ちょっとした解釈のちがいが宗派の分裂につながることもあったので厳密にやるのは大切なことかもしれない。同じ文句を唱えながら意味が違えば同じ宗派に所属していても内実は違うことを信じているということになる。
半年くらい前に哲人が「古語なんて権威付けの誤魔化しだからね。たとえば旧約聖書の”はじめに光ありき”あるだろ。”き”は直接経験の助動詞。いったいだれが見てたんだよ。それをいうなら”はじめに光ありけり”、はじめに光があったとさだろうが!」と講義でしゃべっていたのをふと思い出した。
それにしても一字一句やってみるとあらためて難しいと感じる。仏オタにならない限り表面的な意味を理解することも難しいんじゃないか?よく分からないから有り難い、ということでもない限り普通の人にとって功徳はない。そう考えると修行を万人向けに単純化した鎌倉仏教は革命的だったんだな。
| Home |